~30歳、未経験で飛び込んだ決断~
今の私ができるまで
「ここまで先回りして動いてくれる営業担当は初めてです。」
「近藤さんにお願いして良かった。」
仕事をしていると、ときどきそんなお声をいただきます。
そのたびに思い出すのが、12年前の自分です。
今では笑って話せることもありますが、当時は毎日が本当に苦しく、「もう辞めたい」と何度も思いました。
それでも、その経験があったからこそ、今の私の営業スタイルがあります。
今回は、少し長くなりますが、私が不動産業界へ入り、今の考え方に至るまでの話を書こうと思います。
すべての始まりは、一人の営業部長との出会いでした。
私が不動産業界に興味を持ったきっかけは、関西の大学院工学研究科を修了し、新卒で入社した外資系通信企業で出会った営業部長の存在でした。
当時の私は、「これから社会人として頑張るぞ」という気持ちはもちろんありましたが、第一志望の会社に入社できたことで完全に気が緩んでいました。
「会社が育ててくれるだろう。」
「働きながら英語も自然と身につくだろう。」
そんな甘い考えで社会人生活をスタートさせたのです。
学生時代も、内定をいただいてからは特に自己研鑽をすることもなく、何となく時間を過ごしていました。
今振り返れば、社会人としてのスタートラインに立つ準備がまったくできていなかったのだと思います。
そんな私が配属されたのは、会社の中でも一番の花形と言われる営業部署でした。
会社の売上を支える中核部署であり、成果を出せば評価も高く、社内でも「会社の稼ぎ頭」「あの部署は給料も良くてうらやましい」と言われるような部署です。
新卒社員向けの研修制度は非常に充実しており、社会人としての基礎を学ぶ環境は整っていました。
しかし、配属先は通信業界で豊富な経験を持つキャリア採用の社員が中心の部署でした。
現場では「一から教えてもらう」のではなく、自ら考え、自ら学び、自ら結果を出すことが当たり前の世界です。
もちろん先輩方も忙しく、手取り足取り教えてもらえるような環境ではありませんでした。
今思えば、それだけ高いレベルが求められる部署だったのだと思います。
しかし、当時の私にはその環境についていくだけの力がありませんでした。
営業としての考え方や交渉力、プレゼンテーション能力はもちろん、ビジネスマナーや人との関わり方まで、自分には圧倒的に足りないものばかりでした。
さらに外国籍の社員も多く在籍しており、社内の公用語は英語でした。
会議資料や社内メールも英語が当たり前。
英語も十分に話せない。
営業として何をすればいいのかも分からない。
配属されて間もなく、「これはとんでもない場所に来てしまった……。」と愕然としたことを今でも覚えています。
さらに、自分が苦しんだ原因は仕事だけではありませんでした。
それまでの勉強への向き合い方にも、大きな問題があったのです。
中学・高校・大学時代の私は、「良い成績を取ること」「進学すること」が目的になっていました。
大学受験は指定校推薦だったため、中間・期末試験で良い成績を取ることが最優先でした。
試験前に知識を詰め込み、試験が終われば忘れてしまう。
そんな勉強を繰り返していました。
大学でも同じです。
「単位を取得すること」が目的となり、本質を理解するためではなく、試験を乗り切るための勉強ばかりしていました。
その結果、営業部署へ配属されて一か月ほど経つ頃には、その弱点はすぐに見抜かれてしまいました。
知識を暗記することはできる。
しかし、自分の言葉で説明できない。
相手の意見を踏まえて考えを組み立てることができない。
社会に出て初めて、仕事で求められるのは「覚える力」ではなく、「考える力」なのだということを痛感しました。
「学ぶ」と「覚える」はまったく違う。
そのことを、社会に出て初めて思い知ったのです。
英語ができるかどうか以前に、私は社会人として、人として未熟でした。
当時の先輩営業からは、
「おぼっちゃんなんだね。」
「よくそのレベルでこの部署に入れたね。」
「君はいったい何を持ってるの?君のレベルの大学の偏差値でありえない」
そんな厳しい言葉を掛けられることもありました。
当時は悔しくて仕方ありませんでした。
しかし、今振り返れば、その言葉は決して間違っていなかったと思います。
私はプライドだけは高く、分からないことがあっても素直に「分かりません」と言うことができませんでした。
分からないまま知ったふりをし、自分から質問もしない。
その結果、自分で自分の成長の機会を失っていたのです。
そんな中で、一人だけ強烈な印象を受けた人がいました。
営業部長です。
部長は営業として優れていただけでなく、クリティカルシンキングやロジカルシンキングを日々の仕事で自然に実践されている方でした。
「なぜそう考えるのか。」
「本当にその結論でいいのか。」
一つひとつの仕事に対して論理的に考え、本質を追求する姿勢は、それまでの私にはまったくないものでした。
私はそれまで、そのような思考法に触れたことがなく、
「仕事とは、こんなふうに考えながら進めるものなのか。」
と大きな衝撃を受けました。
このときに学んだ考え方は、今でも私の仕事の土台になっています。
部長は社内でも一目置かれる存在でした。
豊富な知識と経験、高い行動力と決断力、そして圧倒的な営業実績。
どれを取っても、当時の私には到底かなわない存在でした。
何より違うと感じたのは、勉強量です。
話をしているだけで、その背景にある知識の深さや日々積み重ねている努力が伝わってきました。
私は、「この人は、自分とは見えている景色が違う」と感じていました。
部長と話すたびに、自分の考えの浅さや準備不足をすべて見透かされているような感覚になり、質問されることさえ怖く感じていました。
緊張のあまり、思うように会話もできませんでした。
社会人になってから今日まで、本当に多くの方と仕事をご一緒してきました。
しかし、「仕事力」という点で、あの部長を超える人には、あとにも先にも出会ったことがありません。
人格的な部分は……さておきですが(笑)。
それも含めて、とても人間味があり、魅力的な方でした。
今でも忘れられない部長の言葉があります。
「英語はあくまでツールだ。大切なのは、自分が何を伝えたいかなんだ。」
部長の英語は、決して流暢ではありませんでした。
「ギブユー。」
「サンキュ、サンキュ。」
そんなカタカナ英語で、海外の取引先とも堂々と商談を進めていました。
当時、社内には帰国子女や難関大出身の「英語堪能なエリート」が数多く在籍していました。しかし、いざ実務が始まると手際が悪く、周囲から「仕事のテンポが遅すぎる」と苦情が出る人もいまいた。
周りからは影で「あいつは英語は達者だけど、実務はちょっとね……」なんて囁かれてしまう。そんな、語学力と実務能力のギャップを目の当たりにすることもありました。
私はその環境で、初めて気づいたのです。
英語が話せることと、仕事ができることは、必ずしもイコールではない。
本当に大切なのは、語学力ではありません。
相手に何を伝え、どのような価値を提供するのか。
その本質を理解している人が、結果を出すのだということを部長から教わりました。
もちろん、最低限の英語力が必要なのは言うまでもありません。当時の私は英語力も知識も圧倒的に不足していました。
しかしあのときの言葉は、今でも私の仕事観の根幹になっています。
さらに部長は、サラリーマンとして年収2,000万円を稼ぎながら、宅地建物取引主任者(現:宅地建物取引士)の資格を取得し、不動産経営までされていました。
当時の私には、その姿がとてつもなく格好良く映りました。
そして、私はここで初めて**「宅地建物取引士」という資格**の存在を知ります。
その頃の私は、ようやく一つのことに気づき始めていました。
新卒でこの会社を選んだ理由を振り返ると、「通信業界で働きたい」という強い思いがあったわけではありません。
工学部出身だから通信系の会社が自分に合っているだろう。
外資系企業なら英語が使えて格好いい。
外資系企業で働いている自分なら、周りからもすごいと思われる。
そんな「会社に所属している自分」に憧れ、どこか見栄を張って就職活動をしていたのだと思います。
しかし、この会社で挫折を経験し、本当に優秀な人たちと出会ったことで、その考えは大きく変わりました。
肩書や会社の名前では、自分の価値は決まりません。
本当に大切なのは、自分自身がどんな力を身につけ、どんな人間へ成長していくかでした。
だからこそ私は、20代のうちに社会人として胸を張れる力を身につけたいと思うようになりました。
しかしその一方で、私はある現実も痛感していました。
「今の自分では、この環境で活躍できるだけの力がない。」
それほどまでに、自分の未熟さを思い知らされたのです。
周囲には、学生時代から努力を積み重ね、実力を身につけてきた優秀な社員が数多くいました。
その現実を痛感するたび、自分との差を強く意識するようになりました。
入社して1年が経った頃、振り返ると、そこには思い描いていたような成長を実感できない自分がいました。
後輩も入社してきましたが、自分自身が仕事を十分にこなせているとは思えず、アドバイスできる立場ではありませんでした。後輩に追い抜かれるのではないかという焦りや、周囲と比較されることへのプレッシャーも日に日に大きくなっていきました。
英語力、通信の専門知識、営業としてのマナーや礼儀――。
「あれもできなければならない。これも完璧にこなさなければならない。」
そうやって自分を追い込み続けた結果、張り詰めていた緊張の糸が、ある日ぷつりと切れてしまいました。
そんな中で私が出した結論は、
「一度すべてをリセットしよう。」
ということでした。
このまま目的もなく働き続けても、自分は何も変わらない。
今振り返ると、当時の私は、野球を始めたばかりの小学生が、いきなりメジャーリーグで戦おうとしているようなものだったと思います。
周囲は、それまでの人生で知識や経験を積み重ねてきた人たちばかり。
一方の私は、その土台すらないまま、同じ舞台で結果を出そうとしていました。
勝てるはずがありませんでした。
だからこそ、もう一度、自分自身と向き合い、社会人としてゼロからやり直そうと決意しました。
そう決意し、入社から1年2か月で会社を退職しました。
東京での社会人生活は、こうして幕を閉じました。
しかし今振り返れば、この会社に入社したことは、私にとって人生最大の財産だったと思います。
大学院まで進学したからこそ、このようなレベルの高い環境で働く機会を得ることができました。
そして、自分の実力や未熟さと真正面から向き合い、等身大の自分を知ることができました。
この経験があったからこそ、私は挫折を人生の糧にしようと決意することができたのです。
会社を退職した私は、徳島の実家へ戻り、26歳で無職となりました。
人生で初めて味わう、大きな挫折でした。
友人たちは大手企業で活躍し、それぞれの道を歩み始めていました。
一方の私は、社会人生活をわずか1年2か月で終え、振り出しに戻ってしまいました。
当時は、現在の妻と交際していました。
このままでは結婚どころか、将来を語ることすらできない。
「早く立ち上がらなければ。」
そんな焦りと、「今の自分には人に会わせる顔がない」という情けなさでいっぱいだったことを今でも覚えています。
それでも、この挫折があったからこそ、
「今度こそ本気で自分を変えよう。」
そう覚悟を決めることができました。
そして、この決意こそが、後に不動産業界へ挑戦し、現在の私へとつながる原点になったのです。
挫折から始まった、もう一度の営業人生
会社を退職した私は、実家へ戻り、転職活動を始めました。
新卒で入社した外資系通信企業では、営業として大きな挫折を経験し、自信を完全に失っていました。
「もう一度、一からやり直したい。」
そう考えた私は、自分の原点でもある工学の知識を生かそうと、二社目となる石油の総合商社へ社内SEとして入社しました。
営業から離れ、システムの知識を身につけながら、新しい道を歩もうと思っていたのです。
しかし、入社後に社長が交代し、新しい社長から、
「若いのだから営業も経験してほしい。」
と声を掛けていただき、営業部門へ異動することになりました。
正直、「また営業か……。」という戸惑いはありました。
新卒時代の苦い記憶がよみがえったからです。
それでも心のどこかでは、「今度こそ営業として結果を出したい」という思いもありました。
あの時の悔しさを、このまま終わらせたくなかったのです。
任された以上は結果を出そうと決意し、私は再び営業として歩み始めました。
しかし、当時の私は、まだ新卒時代の悪い癖を引きずっていました。
外資系企業で働いていたという根拠のない自負。
そして、実力に見合わない高すぎるプライド。
そして、うまくいかないことを環境や他人のせいにしてしまう考え方。
知識も経験もないにもかかわらず、無意識のうちに先輩社員へ偉そうな態度を取ってしまうこともあり、人間関係は決して良好とは言えませんでした。
今振り返れば、上司からは間違いなく嫌われていたと思います(笑)。
もし今の自分が当時の私を部下として迎えたら、「扱いにくい部下だな」と感じるでしょう。
自分でも「このままではいけない」と頭では分かっていました。
それでも、それまでの人生で身についた考え方や振る舞いは簡単には変えられません。
変わろうと意識するほど空回りし、自分を変えられないことにもがいていました。
今思い返しても、当時の上司や先輩方には本当に失礼な態度を取ってしまっていたと思います。
思い出すたびに恥ずかしくなり、できれば思い出したくない記憶の一つです。
営業として成長する以前に、人として未熟だった。
それが当時の私でした。
担当したのは、ガソリン・軽油・灯油をガソリンスタンドへ、重油を工場へ販売するルート営業です。
最初の3年間は関西営業所に配属され、大阪府と和歌山県全域を担当しました。
担当する既存のお客様は100社を超え、訪問営業だけではなく、見積書の作成、受発注、運送手配、電話対応など、毎日慌ただしく仕事に追われる日々でした。
この頃、「営業とは商品を売ることだけではない」ということを学びました。
お客様へ商品を安定して届けるために社内外を調整し、信頼を積み重ねていくことも営業の大切な役割です。
既存のお客様への提案だけでなく、大口の新規開拓にも挑戦し、大型案件を獲得することもできました。
新卒時代には味わえなかった成功体験を積み重ねることで、失っていた自信を少しずつ取り戻していきました。
その後、中四国営業所へ異動となり、岡山県と四国全域を担当しました。
営業という仕事そのものは、お客様との信頼関係を築き、課題を解決していく非常にやりがいのある仕事でした。
一方で、石油業界は価格競争が激しく、お客様との信頼関係だけでは契約を獲得できない場面も少なくありません。
次第に私は、
「もっと自分自身の営業力で勝負できる仕事がしたい。」
と思うようになっていきました。
そんな中、26歳の頃から宅地建物取引士の勉強を始めました。
「いつか自分も、不動産業界で挑戦したい。」
そんな思いが、少しずつ心の中に芽生えていきました。
営業配属から3年が経った頃には、20代は営業の基礎や日系企業ならではの人間関係、社会人としてのマナーを徹底的に学び、30歳を迎える頃には新たな業界へ挑戦したい。
そんな将来像を、ぼんやりとですが思い描くようになっていました。
そんな思いを胸に、仕事と勉強を両立する日々が始まりました。
しかし、仕事をしながらの勉強は想像以上に大変でした。
何度も不合格となり、そのたびに悔しい思いをしました。
それでも、諦めることだけはしたくありませんでした。
仕事が終わってから机に向かい、休日も勉強に費やす生活を続けました。
決して要領の良いタイプではありません。
だからこそ、人より時間をかけて努力するしかありませんでした。
そうして4回目の挑戦を迎えた頃には、私の中で一つの決意が固まっていました。
「30歳で、不動産業界へ挑戦する。」
宅建試験の結果を待ってから決めたわけではありません。
結果がどうであれ、自分の人生を変えるなら今しかない。
そう覚悟を決めていたのです。
不動産業界を目指した理由
30歳になる年、私は宅建試験の結果を待つことなく、不動産会社への転職活動を始めました。
当時の私は、まだ宅地建物取引士の資格を持っていませんでした。
それでも挑戦しようと決めたのは、「資格を取ってから動く」のではなく、「人生を変えると決めたから動く」という思いがあったからです。
新卒での挫折、石油商社で営業として自信を取り戻した経験を通じて、私の中には一つの確信がありました。
「次に挑戦するなら、不動産業界しかない。」
理由はいくつかありました。
一つ目は、不動産という仕事そのものに強く惹かれていたことです。
不動産は、数千万円、ときには数億円という高額な資産を取り扱う仕事です。
さらに、宅地建物取引士の資格がなければ、一人で重要事項説明を行うことはできません。
誰でも簡単にできる仕事ではなく、大きな責任を伴う仕事だからこそ、その世界で自分の力を試してみたいと思いました。
二つ目は、自分自身を変えたかったからです。
それまでの私は、どちらかと言えば受け身で、その場を乗り切ることばかり考えていました。
しかし、不動産営業は、お客様ごとに状況が異なり、営業担当者の提案や考え方によって結果が大きく変わります。
自ら考え、行動し、お客様にとって最善の提案をする。
そんな営業になれれば、人としても大きく成長できるはずだと考えました。
こうして私は、宅建資格の有無に関係なく、不動産業界へ飛び込むことを決意しました。
なぜ私は厳しい会社を選んだのか
転職活動を始めるにあたり、不動産会社は数多く調べました。
地域密着型の会社、大手仲介会社、ハウスメーカー系など、選択肢はいくらでもあります。
その中で、私が選んだのは、当時、圧倒的な販売力と情報量を誇る大手仲介会社でした。
理由は明確でした。
まず、不動産営業として成長するのであれば、一流の環境で基礎から学びたいと思ったからです。
多くの物件、多くのお客様、多くの取引を経験できる環境であれば、それだけ実践を通して学べることも多い。
不動産取引のノウハウを最短で身につけるには、この会社しかないと考えました。
もう一つ、大きな理由がありました。
私は人生を振り返ったとき、「本気で限界までやり切った」と胸を張って言える経験がありませんでした。
学生時代も、社会人になってからも、どこかで自分に甘え、最後まで振り切ることなく終わってきたように感じていました。
だからこそ、一度くらいは自分を極限まで追い込み、自分の限界を超える経験をしたい。
その経験が、自分の人生観を変えてくれるのではないか。
そう考えていました。
さらに、その会社は成果を出した分だけ収入を得られる実力主義の会社としても有名でした。
もちろん、お金だけが目的ではありません。
しかし、「努力した分だけ評価される世界」で、自分がどこまで通用するのか試してみたいという思いは強くありました。
そして30歳。
同世代と比べても、自分は営業として遠回りをしてきたという自覚がありました。
だからこそ、あえて厳しい環境へ飛び込み、最短で成長したい。
それが、この会社を選んだ一番の理由でした。
当時、インターネットで会社名を検索すると、
「ブラック企業」
「営業ノルマが厳しい」
「離職率が高い」
そんな口コミが数多く並んでいました。
もちろん、不安はありました。
正直に言えば、むちゃくちゃ怖かったです。
しかし、不思議と迷いはありませんでした。
私の中で、その会社は、不動産業界でいう高校野球の当時で言うところの**「PL学園、徳島では徳島商業高校」**のような存在でした。
私は高校時代、普通科の高校で野球をしていました。
甲子園を目指すような強豪校ではなく、仲間と野球を楽しみながら、一生懸命プレーするごく普通の野球部です。
だからこそ、公式戦で名門校と対戦したときの衝撃は今でも忘れられません。
グラウンドに入った瞬間から漂う緊張感。
選手一人ひとりの立ち振る舞いやプレーの質、チーム全体が放つ雰囲気。
「同じ高校生なのか」と思うほどの圧倒的なオーラがありました。
当時は「厳しい」「しんどい」といった評判も耳にしていましたが、その強さを目の当たりにすると、やはり練習量や野球に対する熱量が自分たちとはまったく違うのだと感じました。
そして、「本気で成長したいなら、こういう環境で学ぶしかないんだろうな」と本能的に思ったことを覚えています。
不動産会社を探していたとき、その会社には当時の名門校と同じような印象を受けました。
営業ノルマは厳しい。
人の入れ替わりも激しい。
それでも、業界を代表する営業を数多く育てている。
楽な環境では、自分は変われない。
だからこそ私は、その環境に飛び込みたいと思いました。
ここで通用すれば、どこへ行っても通用する営業になれる。
そう信じていました。
そんな私の挑戦を、いつも支えてくれたのが妻でした。
東京で社会人生活を始めた頃から、挫折して実家へ戻った時も、岡山で働いていた時も、どんな状況でも妻は変わらず私を信じ、励まし続けてくれました。
決して順風満帆な社会人生活ではありませんでした。
それでも妻は、一度も私を責めることなく、前を向かせてくれました。
だからこそ、
「今度こそ結果を出して、妻に恩返しがしたい。」
その思いは、挑戦を決意する大きな原動力になりました。
また、妻の実家は工務店を営んでいます。
将来、不動産業界で経験を積むことが、自分自身の成長だけでなく、いつか妻の家族の力にもなれるかもしれない。
そんな思いも、この業界へ飛び込む決断を後押ししてくれました。
宅建合格がくれた最高のスタート
第一志望だったその会社から内定をいただき、私は石油商社を退職しました。
そして退職後、宅建試験の合格発表の日を迎えます。
画面に表示された受験番号の中に、自分の番号を見つけた瞬間、4年間積み重ねてきた努力が一気によみがえりました。
仕事をしながら独学で勉強を続け、何度も不合格を経験しました。
特に3回目の不合格は、本当に苦しかったことを覚えています。
「もう一生受からないんじゃないか。」
そんな思いが頭をよぎりました。
「なんで自分はこんなに頭が悪いんだろう。」
そう自分を責め、情けなくなったことも一度や二度ではありません。
それでも、不動産業界で挑戦したいという思いだけは消えませんでした。
だからこそ、「もう一年だけ頑張ろう」と自分に言い聞かせ、机に向かい続けました。
そして4回目の挑戦で、ようやく努力が報われたのです。
合格発表の日。
妻の実家のリビングで、パソコンの画面を食い入るように見つめながら、自分の受験番号を探していました。
そして、画面の中に自分の番号を見つけた瞬間――
思わず拳を握りしめ、
「よっしゃー! 」
と、ガッツポーズがでました。
それと同時に気づけば、涙があふれそうになっていました。
でも、妻の家族の前で泣くのは少し照れくさくて、必死にこらえたことを今でも鮮明に覚えています。
その瞬間、心の中で何度もこうつぶやきました。
「あの時、諦めなくて本当に良かった。」
心の底からそう思えたことを、今でも鮮明に覚えています。
入社の年に合格できたという事実は、偶然とは思えず、まるで導かれていたかのような運命に感じました。あの瞬間は、間違いなく人生で最も至福の時間でした。
そして合格発表の数日後が入社日、私は宅地建物取引士として、新たな人生の第一歩を踏み出しました。
30歳。
人生最大の挑戦の始まりであり、地獄へのはじまりでもありました。。。
第2章に続きます。
