~中途未経験が味わった現実~
とんでもない世界に足を踏み入れてしまった
入社式の日、専務から私の配属先が大阪南の営業所であることが発表されました。
その営業所は、社内ではあまり良い噂を聞かない部署でした。
「仕事ができない所長が行く場所」
「会社の墓場みたいな営業所」
そんな話を耳にしていたこともあり、配属が決まった瞬間、私の胸には期待よりも不安のほうが大きく広がっていました。
そして実際に配属されて最初に感じたことは、
「とんでもない世界に足を踏み入れてしまった。」
ということでした。
厳しい環境で自分を鍛えたい。
営業として、人として、一気に成長したい。
そんな覚悟を持って飛び込んだ世界でしたが、現実は私の想像をはるかに超えていました。
当時の率直な感想は、
「命までは取られない。でも、毎日が恐怖だった。」
というものです。
今では考えられないような環境でした。
大手であるのに地場の不動産会社の雰囲気が漂うというものでした。
コンプライアンスという言葉はほとんど聞くことがなく、店舗では毎日のように厳しい叱責が飛び交っていました。
夜遅くまで続く営業活動。
深夜のチラシ配布。
数字に対する強烈なプレッシャー。
社員に笑顔がなく、どこか冷めたような顔つきで、世間話等一切ない。
新しく入っても何か興味をもって質問してくれるとこもなかった。
それまで経験してきた会社とのギャップに、私は大きなカルチャーショックを受けました。
その中でも、入社して間もない頃の出来事は今でも鮮明に覚えています。
その月に契約が入っていなかったエースの先輩社員が、所長から店舗内の個室へ呼ばれました。
個室といっても、完全な部屋ではありません。
パーテーションで囲われているだけで、壁は天井まで届いておらず、中の声は店舗中に聞こえてしまうような造りでした。
しばらくすると、
「バンッ!!」
と、テーブルを思い切り叩く大きな音が店内に響き渡りました。
続いて、
「どないなっとんや!」
「数字どうすんねん!」
「それでどうやって数字を作るんや!言うてみろ!」
という所長の怒声が店舗中に響きます。
一方で、個室の中から聞こえてくる先輩社員の声は、
「……はい。」
「……すみません。」
「……はい。」
それだけでした。
ぼそぼそと小さく返事をする声だけが聞こえ、反論することもできず、ただ叱責が終わるのを待っているように感じました。
そのやり取りは、お客様が来店されていても止まることはありませんでした。
30分、長いときには1時間近く続くこともあり、店舗全体が張り詰めた空気に包まれていました。
私は自分の席で仕事をしながら、そのやり取りをただ黙って聞いていました。
そして、頭の中では一つのことだけが繰り返されていました。
「近い将来、自分もあの部屋に呼ばれるのだろうか……。」
自然と肩に力が入り、背中がこわばっていたことを今でも今でもはっきりと覚えています。
また、当時最も驚き、そしてある意味で恐怖すら感じたのは、一部上場企業の店舗所長でありながら、パソコン操作がほとんどできなかったことでした。
メールの送り方が分からず、文字入力も片手の人差し指で行っているような状態で、デジタル業務には大きな不安を感じる場面がありました。
その姿を見て、「この人に本当に不動産仲介の仕事が務まるのだろうか」と感じてしまったのも事実です。
入社早々の洗礼
そんな中、入社して間もなく、最初の試練が訪れます。
ある日、店舗に来店されたお客様の対応を任されました。
所長から会社のアンケート用紙を渡され、
「まずはヒアリングしてこい。」
そう言われたのです。
法人営業の経験はあったので、「お客様の話を聞くくらいなら何とかなるだろう。」と軽く考えていました。
しかし、その考えはあまりにも甘かったのです。
いざお客様を前にすると、何から聞けばいいのか、どんな順番で話を進めればいいのかがまったく分かりません。
アンケート用紙を見ながら、おどおどと質問をすることしかできませんでした。
すると、お客様は私の様子を見て少し困った表情を浮かべ、
「担当を代えてください。こんな頼りない営業には任せられません。」
とはっきりと言われてしまいました。
頭の中は真っ白になり、冷や汗が止まりませんでした。
その様子を見ていた所長はすぐに先輩社員を呼び、お客様の担当はその場で交代となりました。
お客様の前でここまでストレートに拒絶されたのは、人生で初めての経験でした。
この瞬間、私は法人営業と個人営業はまったく別物だということを痛感しました。
法人営業では、お互いがプロ同士です。
多少説明が足りなくても、相手が意図を汲み取ってくれる場面があります。
しかし、不動産の個人営業は違いました。
お客様は営業担当の知識や経験だけでなく、話し方や立ち居振る舞いまで見て、「この人に任せても大丈夫か」を瞬時に判断します。
頼りないと感じられた瞬間、信頼を得ることはできません。
この出来事をきっかけに、私には個人営業としての知識も経験も圧倒的に足りないことが、社内でも明らかになりました。
「まだお客様を任せられるレベルではない。」
そう判断されたのでしょう。
その後は、お客様対応よりも、チラシの準備や物件資料の作成、現地待機、事務作業など、店舗を支える仕事を任されることが多くなりました。
もちろん、それらは店舗運営に欠かせない大切な仕事です。
しかし当時の私は、「営業」として採用されたにもかかわらず、お客様の前に立つことさえ任せてもらえない現実を受け入れることができませんでした。
営業として成果を出すどころか、営業としてスタートラインにも立てていない。
30歳にもなって、自分は何をやっているんだろう。
そんな情けない気持ちでいっぱいでした。
店舗では事務スタッフの方々がそれぞれの役割を淡々とこなし、営業とのやり取りも必要最低限でした。
私自身も結果を出せていない負い目があり、自分から積極的に話しかけることもできず、店舗の中で居場所がないような感覚を抱いていました。
さらに、その年には新卒社員も入社してきました。
年齢だけを見れば私の方が上です。
しかし営業としては、彼らの方が期待され、お客様対応を任され、少しずつ成長していく姿を目の当たりにしていました。
一方の私は、雑務をこなしながら店舗を支える毎日。
「30歳にもなって、自分は新卒社員以下なのではないか。」
そんなことばかり考えていました。
あれほど厳しい環境を自分で選んで入社したにもかかわらず、何一つ期待に応えられていない。
その現実が、本当に悔しく、惨めでした。
さらに、お客様対応だけでなく、電話対応ですら思うようにできませんでした。
一本の電話に出ることさえ緊張し、何を話せばいいのか分からず、失敗するたびに自信を失っていきました。
「また失敗するかもしれない。」
そんな不安ばかりが先に立ち、自分から行動することができなくなっていったのです。
気づけば毎日をただやり過ごし、時間が過ぎるのを待つだけの日々になっていました。
バイブルになった研修と、辞めていった同期
入社してすぐの中途社員研修は、とても充実した内容でした。
講師を務めてくださったのは、会社でトップセールスマンとして活躍し、その後は相談役のような立場を務めていた方です。
約3か月にわたる研修では、重要事項説明書の作成方法や役所調査の進め方、道路条件の確認方法、取引時の注意点など、不動産実務の基礎を現場目線で丁寧に教えていただきました。
教科書に書かれている知識ではなく、
「現場では何を見て、どう判断し、どう動くのか」
という実務に直結した内容ばかりで、とても実践的な研修だったことを今でも覚えています。
そのときに取ったノートは、今でも私にとってのバイブルです。
査定や調査で迷ったときには見返すこともあり、営業人生の土台になった大切な財産として今も手元に残しています。
研修を受けていた当時の私は、まだ現場の厳しさを知りませんでした。
インターネットには会社に対する厳しい口コミもありましたが、
「実際は人をしっかり育ててくれる会社なのかもしれない。」
そんな期待を抱いていたことを覚えています。
研修には同期も一人参加しており、同じ中途入社ということもあって自然と打ち解けました。
しかし、その同期は現場へ配属されてから少しずつ表情が変わっていきました。
研修と並行して実務が始まると、日に日に疲れた様子が目立つようになり、最終的には3か月の研修を終えることなく会社を退職しました。
宅地建物取引士の資格をまだ取得しておらず、働きながら資格取得を目指さなければならないことも、大きなプレッシャーだったのかもしれません。
その出来事は、私にとって現場の厳しさを感じた最初の出来事でした。
同時に、
「学べる環境があること」と、「その環境で働き続けられること」はまったく別の話なんだ。
そんな現実を、初めて目の当たりにした瞬間でもありました。
それでも私は、この研修で学んだことだけは必ず自分のものにしようと決めていました。
結果的に、そのときの学びは十数年経った今でも私の営業の土台になっています。
営業マンと女性事務スタッフの温度差
今でも忘れられない出来事があります。
ある日、営業は来店対応や電話対応、書類作成などで店舗全体が慌ただしく動いていました。
私自身も時間に追われながら雑務をこなしていました。
そんな中、事務スタッフの方から、
「私たちは18時30分には帰るので、それまでに媒介ファイルをここに置いておいてください!!!」
と、かなり強い口調で言われました。
私は雑務だけであったので、媒介ファイルは関係なかったのですが。。。
その瞬間、私は心の中で、
「いや、何様やねん……。」
と思ったことを今でも覚えています。
営業をサポートするというよりも、それぞれが自分の業務を優先する空気が強く感じられました。
そして、不思議だったのは所長の対応です。
営業には毎日のように厳しい言葉を浴びせる一方で、事務スタッフにはとても優しく接していました。
当時の私は、
「なんで事務の方のほうが立場が上に見えるんだろう。」
と感じるしかありませんでした。
店舗の中では役割もはっきり分かれていました。
結果が伴っていない営業マンは、店舗の掃き掃除や雑務も担当する一方で、事務スタッフは書類管理やネット関連の業務などを担当していました。
休憩はきっちり取り、定時になれば帰る。
一方で営業は、お客様対応や外回りが終わってからも、深夜まで仕事が続くことも珍しくありませんでした。
同じ店舗で働いているにもかかわらず、まるで別の会社にいるような感覚でした。
その温度差もあって、当時の私には店舗の空気そのものが息苦しく感じられました。
上司は選べない
私が在籍していた約2年間で、店舗の管理職は3人変わりました。
管理職が変わるたびに職場の雰囲気も少しずつ変化しましたが、共通していたのは、常に緊張感が漂う環境だったことです。
最初の所長は、感情の起伏が非常に激しい方でした。
特に月末になると営業数字へのプレッシャーが一気に高まり、店舗中に怒号が響くことも珍しくありませんでした。
後から聞いた話では、20代で自ら手を挙げて所長になったそうです。
営業としての経験はそれほど長くなく、店舗の数字はエース社員が支えているような印象でした。
未経験で入社した私にとって、この環境はあまりにも厳しいものでした。
分からないことを質問しても、明確に教えてもらえることは少なく、時には叱責されることもありました。
そのため、次第に質問すること自体が怖くなっていきました。
定年も近かったこともあり、当時の私には、部下を育てるというより、日々の店舗運営を維持することが優先されているように映りました。
次に着任したのは、複数の管理職を歴任されてきたベテランの所長でした。
昔ながらの不動産営業マンという雰囲気があり、私の中では漫画『北斗の拳』のラオウのような圧倒的な存在感がありました。
がっしりとした体格に、ゆったりとしたスーツ。使い込まれたビジネスバッグを持ち、革靴も長年履き続けていることが分かるほど年季が入っていました。
初めて見たときは、
「これが上場企業の管理職なのか。」
と、正直驚きました。
しかし、不思議とその姿には独特の貫禄があり、部屋に入ってくるだけで空気が変わるような圧倒的な存在感がありました。
見た目の華やかさではなく、長年この業界で生き抜いてきた人だけが持つようなオーラを感じたことを今でも覚えています。
普段は穏やかでしたが、一度怒ると店舗中に響くほどの大きな声で叱責されることもありました。
着任して間もない頃、私はこう言われました。
「君には人生を感じない。」
当時の私は、その意味が分からず、ただ深く傷つきました。
自信を失っていた時期だったこともあり、その一言は胸に重くのしかかりました。
しかし、年月が経った今では、この言葉を少し違う視点で受け止められるようになりました。
あの厳しい環境の中で管理職まで上り詰めたということは、それだけ結果を出し続け、会社から信頼されてきた人だったのでしょう。
だからこそ、人を見る目も鋭かったのかもしれません。
当時の私は、転職を繰り返し、自分に自信もなく、少し苦しいことがあると諦めそうになるような、中途半端な覚悟で仕事に向き合っていました。
そんな私の姿を見て、所長は一瞬で本質を見抜いたのだと思います。
今振り返ると、
「やはり、見抜かれていた。」
そう感じます。
あの言葉は仕事ではなく、私の生き方そのものに向けられた言葉だったのかもしれません。
当時は受け入れられませんでしたが、今では人生や仕事への向き合い方を見直すきっかけになった、大切な言葉です。
しかし、その頃の私は精神的に追い詰められ、逃げ場がなくなっていました。
悩んだ末、私は所長の指導方法や職場環境について、人事へ相談することを決意しました。
私が人事へ相談した後、店舗には新たに部長職の方が着任しました。
店舗の状況を確認し、管理するためだったのだと思います。
その結果、一時的に所長と部長の二人体制となりました。
職場環境が改善されることを期待していましたが、現実はそうではありませんでした。
部長も二人目の所長と同じように厳しいタイプの方で、店舗全体には以前にも増して緊張感が漂うようになりました。
背が高く、刈り上げた七三分けに眼鏡姿。言葉にも鋭さがあり、二人目の所長以上に弁が立つ印象でした。
私の中では、所長が『北斗の拳』のラオウなら、この部長はさらにその上から全体を見渡すような圧倒的な存在でした。
部屋にいるだけで空気が張り詰めるような、そんな威圧感を感じていました。
印象的だったのは、部長が所長を厳しく叱責する場面を何度も目にしたことです。
私には指導というより威圧的なやり取りに映り、今振り返れば、パワーハラスメントと受け取られても不思議ではないような場面もありました。
その光景を見て、
「管理職同士でも、このような関係なのか……。」
と、大きな衝撃を受けました。
職場環境を改善したいという思いで人事へ相談しましたが、結果として店舗の空気はさらに重苦しいものになったように感じました。
その頃には、私の中で退職への決意は固まっていました。
この会社で働いて学んだことの一つは、
「上司は選べない。」
ということです。
もちろん、厳しい上司のもとで成長する人もいます。
一方で、私のように萎縮してしまい、本来の力を発揮できなくなる人もいます。
どちらが正しいという話ではありません。
ただ、配属される店舗や、一緒に働く上司、先輩、同僚によって、自分の成長スピードや働きやすさは大きく変わることを、この会社で痛感しました。
そして、もう一つ強く感じたことがあります。
管理職になれば楽になるわけでも、幸せになるわけでもないということです。
部長が所長を叱責し、所長は部下を叱責する。
そんな光景を目の当たりにして、この会社では役職が上がっても、常に大きなプレッシャーの中で働き続けなければならないのだと感じました。
その姿を見たとき、
「ここで管理職を目指したいとは思えない。」
それが、私の率直な気持ちでした。
だからこそ私は、この会社で耐え続けるのではなく、新しい環境で人生をやり直すことを決意しました。
今振り返ると、この2年間は決して楽しい時間ではありませんでした。
それでも、この経験があったからこそ、「どんな上司のもとで働きたいか」、そして「自分はどんな人間でありたいか」を真剣に考えるようになりました。
上司は選べません。
だからこそ、自分が働く環境は、自分で選ぶしかない。
この2年間は、そのことを身をもって教えてくれた大切な時間だったと思っています。
失敗を恐れた私と、挑戦し続けた新卒社員
店舗には、私より約8か月早く入社した23歳の新卒社員がいました。
私より7歳ほど年下で、しかも同じ大学出身ということもあり、どこか意識してしまう存在でした。
私が入社した頃、彼は新卒入社から約8か月が経ち、先輩社員に同行しながらお客様対応を経験し、一人で営業を任せてもらえるようになるために必死にもがいている最中でした。
彼は失敗も多く経験していましたが、それ以上に行動が早く、とても素直でした。
分からないことはすぐに質問する。怒られても翌日には切り替える。所長、先輩にも物怖じせず話しかける。
学生時代にはネット関連の個人向け営業を経験していたこともあり、実務への対応も私よりスムーズに感じました。
社内営業も上手で、気づけば先輩や事務スタッフとも良好な関係を築き、店舗の中心的な存在になっていました。少し生意気な一面もありましたが、新卒で一番年下ということもあり、周囲からは弟のように可愛がられていました。当時30歳だった私には、その「若さ」という武器がとても眩しく映り、「若いって、それだけで得だな」と素直に羨ましく思ったことを覚えています。
もちろん、順風満帆だったわけではありません。
当時の職場は、失敗に対する叱責が非常に厳しい環境でした。
新卒社員である彼も、上司から理不尽とも思えるほど厳しく詰められ、お客様からも血相を変えて叱責されることがありました。
青ざめた表情で涙を浮かべながら仕事をしている姿を、私は何度も見ました。
その光景を目の当たりにした私は、
「失敗したら、自分もあんな目に遭うのか……」
という恐怖心が強くなり、行動することが怖くなってしまいました。
しかし彼は違いました。
どれだけ怒られても行動を止めることはなく、失敗を繰り返しながらも挑戦し続けました。
そして私が入社して半年ほど経つ頃には、店舗の数字を担う存在へと成長し、エリア担当まで任されるようになっていました。
その姿を見て、私は思いました。
「情けない。また一社目と同じ状況だ。」
一方の私は、中途・未経験という立場もあり、常に彼と比較されているような気持ちでいました。
「新卒の彼はもうできているのに。」
そんな空気を勝手に感じ、自分は「できない人」と見られているのではないかと思い込むようになっていました。
任される仕事も雑務が中心となり、次第に店舗の中で自分の居場所がないような感覚を抱くようになりました。
年下の社員や事務スタッフから指示を受けることも増え、そのたびに、
「なぜ30歳にもなって、年下に指示を受けているんだろう。」
そんな悔しさや惨めさを感じていました。
数字が人格の会社であるため、一部の先輩社員の中には、自分より立場が弱いと感じた相手に対して、横柄な態度や失礼な接し方をする人もいました。私はいつも弱い立場であったので、ほとんどそういう扱いを受けていました。
もちろん、仕事ができていなかった以上、この会社ではそれは当然の対応だったのかもしれません。
ただ、今振り返ると、当時の私はこんなことも感じていました。
これはあくまで私の勝手な想像ですが、同じ未経験であれば、中途社員よりも新卒社員を育てていこうという空気があったように思います。
実際に彼は多くの経験を積み、店舗の中心となる存在へ成長していきました。一方の私は、雑務を任されることが多く、実践経験を積む機会にも差があるように感じていました。
もちろん、それが会社の方針だったのか、それとも私自身の実力不足だったのかは分かりません。
ただ一つ言えるのは、配属される環境や、一緒に働くメンバーとの巡り合わせは、自分の成長を大きく左右するということです。
当時の私は、その環境を変えることはできませんでした。
それでも、自分自身を変えることならできる。
そう思うようになりました。
さらに、この会社で働く中で強く感じていたことがありました。
分からないことを質問しても、はっきりと教えてもらえず、どこかはぐらかされるような場面が少なくありませんでした。
「見て覚える」「失敗して覚える」
そんな空気が根強く、体系的に教えてもらえる環境ではないと感じていました。
だからこそ、誰かに頼ることはできず、自分で考え、自分で動くしかありませんでした。
毎日が不安で、手探りの連続でした。
そんな日々を過ごす中で、私の中に一つの強い感情が芽生えます。
「圧倒的な仕事力がほしい。」
知識も経験も身につけて、誰にも文句を言わせない営業になりたい。
そしてもう一つ、心の奥底にはこんな感情もありました。
「失礼な態度を取り、礼儀を欠くような人間には負けたくない。」
悔しさというより、怒りに近い感情だったと思います。
その頃から私は、
「誰よりも勉強して、誰よりも仕事ができる営業になるしかない。」
そう本気で考えるようになりました。
終わらない一日
この会社で一番きつかったのは、拘束時間の長さでした。
定時という概念はほとんどなく、たとえ仕事が早く終わったとしても、解放されるのは22時過ぎ。そこから先も、所長の判断次第で業務が続くことは珍しくありませんでした。ちなみに朝9時までには出社しなければいけません。
特に営業数字が未達の場合は、22時を過ぎてから「罵倒会議」と呼ばれるような詰めの時間が始まります。
厳しく追及されたあと、そのまま新人はチラシ配布へ向かうこともあり、帰宅が深夜0時を回る日も少なくありませんでした。
休みは火曜・水曜の週休2日とされていましたが、実際には水曜日しか休めないことも多く、数字が未達で月末の水曜であれば自主的に出社することが半ば当たり前という空気でした。
休みに出勤しているかどうかが「やる気」の指標のように見られており、仕事とプライベートの境界はほとんどありませんでした。
稼げないのに休めない。
当時の私にとって、それは精神的にも非常につらい状況でした。
営業成績が振るわない社員に対しては、「どれだけチラシを配ったか」が努力の証として評価されるような空気もありました。
本来は成果を出すことが目的のはずなのに、いつの間にか「行動量」だけが評価される環境になっていたように感じます。
さらに、所長からは突然電話がかかってきて、抜き打ちで業務状況を確認されることもありました。
常に誰かに見られているような感覚があり、気を抜ける時間はほとんどありませんでした。
その一方で、現場を離れた所長が、部下に仕事を任せて外で休憩している姿を目にすることもありました。
もちろん、管理職には管理職としての役割があることは理解しています。
それでも当時の私は、
「自分たちは深夜まで働いているのに……」
という複雑な気持ちを抱き、組織としてのバランスに疑問を感じていました。
前職では土日が休みだったこともあり、その頃の生活を思い出すことがよくありました。
家族と過ごす時間があり、普通に休日を迎えられる。
当たり前だと思っていた日常が、実はとても幸せだったのだと、この会社に入って初めて気づかされました。
今振り返ると、当時はまるで逃げ場のない空間にいるような感覚でした。
常に数字に追われ、管理され、精神的にも張り詰めた毎日。
当時の役職者の多くは、良くも悪くも会社の文化に強く適応した人たちだったように思います。
ある意味では、会社に身を捧げるくらいの覚悟がなければ続けられない環境だったのかもしれません。
まともな感覚のままでは続けられず、続けているうちに、その環境が当たり前になっていく。
そんな印象すら受けました。
逆に言えば、その環境に違和感を覚えた人は、次々と会社を去っていきました。
そして気づけば、私自身も約2年間その環境で働き続けていました。
今思えば、
「自分も、あの環境に少しずつ慣れてしまっていたのかもしれない。」
そう思うと、苦笑いするしかありませんでした。
理不尽なチラシ配布
さらに現場では、今では考えられないようなこともありました。
私には毎日、巻き切れないほど大量のチラシが渡されていました。
物理的に配り切ることが難しい量で、当時の私は途方に暮れることも少なくありませんでした。
ある日、配り切れなかったチラシを、やむを得ず近くのコンビニのゴミ箱へ捨ててしまったことがあります。
すると店員さんから、
「次にやったら警察に通報するぞ。」
と厳しく注意されました。
今思えば当然のことです。
当時は精神的にも追い込まれ、正常な判断ができなくなっていたのだと思います。
しかも、配布していたチラシは自分の担当物件ではありません。
先輩社員の物件を宣伝するためのチラシでした。
当然、それを何千枚配ったところで、自分の営業成績になるわけではありません。
やってもやっても、自分の成果にはつながらない。
そんな理不尽さを感じながら、毎日ひたすらチラシを配っていました。
気づけば私は、営業マンというより**「チラシ配布専門」**のような存在になっていました。
店舗には「輪転室」と呼ばれる印刷室があり、毎朝そこへ行くと、私が配布するためのチラシが7種類ほど用意されていました。
もちろん、そのほとんどは先輩社員の担当物件です。
当初は疑問もありました。
しかし、次第にそんな感情すら薄れ、
「もう、どうでもいい。」
そう思うようになっていました。
さらに数字が未達だった月は、それだけでは終わりません。
閉店後の22時頃から、
「重点マンション50棟に配布してこい。」
と所長から指示が出ます。
そして、
「配り終えたマンションごとにメールを送れ。」
そう言い残して、所長は先に帰宅します。
一方、私は深夜の街で一人、マンションを回り続けました。
翌日になると、所長は営業で近くを通るついでに、抜き打ちで本当にチラシが投函されているか確認されます。
その徹底ぶりに、当時の私は、
「ここまで管理されるのか……。」
と、言葉を失いました。
他の営業社員が帰宅していく中、私だけが夜中までチラシを配り続ける日も珍しくありませんでした。
50棟すべて配り終える頃には深夜2時半を過ぎ、自宅へ帰り着くのは夜中3時を回ることもありました。
それでも、不思議なことに途中からは、
「せっかくやるなら、少しでも早く配れる方法を見つけよう。」
と考えるようになっていました。
マンションを回る順番を工夫したり、移動ルートを考えたり、自分なりに効率化を試行錯誤していました。
今思えば、それは極限状態の中でも、自分なりに仕事へ意味を見出そうとしていたのかもしれません。
あの経験は決して楽しいものではありませんでした。
それでも、「与えられた環境の中で少しでも改善する方法を考える」という姿勢は、この頃に身についたように思います。
年収1,000万円の30歳と、何もできない30歳
入社当時、私と同じ30歳の先輩営業マンがいました。
彼は新卒で入社して8年目。
主任という役職に就き、年収は1,000万円を超える店舗のエースでした。
一方の私は、社会人3社目。
未経験で不動産業界に飛び込み、右も左も分からない状態です。
毎日のように怒られ、チラシを配り、失敗を繰り返す日々でした。
同じ30歳。
それなのに、ここまで差があるのか。
本当に惨めな気持ちになりました。
しかし、冷静に考えれば当然でした。
彼はこの厳しい環境の中で8年間逃げることなく努力を積み重ね、結果を出し続けてきた人だったのです。
ある日、彼に新卒時代の話を聞く機会がありました。
その内容は、私の想像をはるかに超えるものでした。
当時は水曜日も休みではなく、
「家にはシャワーを浴びに帰るだけだった。」
と笑いながら話してくれました。
それ以外の日は営業所に泊まり込み、仕事をすることも珍しくなかったそうです。
夜9時になると、電話の受話器にガムテープを巻き、何時間もひたすら電話営業を続ける。
そんな毎日だったと聞きました。
その話を聞いて、
「今よりも、もっと厳しい時代を乗り越えてきた人なんだ。」
と素直に思いました。
私には到底まねのできない下積みです。
だからこそ、今の職場環境は彼らにとって以前よりも働きやすい環境だったのかもしれません。
一方で、当時の私には少し距離も感じていました。
仕事で分からないことを質問しても、核心となる部分までは教えてもらえないことが多く、
「まだまだ甘い。」
そう思われているような気がしていました。
今振り返れば、それも当然だったのかもしれません。
長い年月をかけて苦労しながら身につけた営業ノウハウを、入社したばかりの未経験者へ簡単に教える人はそう多くありません。
結果を出してきた人だからこそ、その重みを知っていたのだと思います。
そんな彼から、今でも忘れられない言葉があります。
「大学院まで出た君が、この先どうなっていくのか興味がある。」
当時の私は、その言葉を素直に受け止めることができませんでした。
どこか試されているような、少し見下されているような気がして、
「絶対に見返してやる。」
そんな悔しさを感じたことを今でも覚えています。
もちろん、今になれば彼にそんな悪意はなかったのかもしれません。
しかし、自信を失っていた当時の私には、その一言が強く胸に刺さりました。
また、仕事以外の話を聞いたときにも、自分との違いを痛感する出来事がありました。
ある日、ボーナスの話になったときのことです。
彼は何気なく、
「ボーナスが入ったら、親にも少し渡してる。」
と話してくれました。
その言葉を聞いた瞬間、私はまた自分との差を感じました。
私は家族を養うことで精一杯で、親に何かしてあげられるような余裕はありませんでした。
仕事で結果を出し、収入を得て、その一部を親へ渡す。
私には、とても立派な大人に見えました。
「同じ30歳なのに、自分はまだ何も恩返しができていない。」
そんな劣等感を抱いたことを今でも覚えています。
一方で、自分自身の社会人生活を振り返りました。
新卒で入社した会社は約1年2か月で退職。
その後は石油の総合商社へ転職し、4年間勤務しました。
働きながら宅地建物取引士の資格も取得しました。
決して何も努力をしてこなかったわけではありません。
それでも当時の私は、
「苦しいことから逃げて転職を繰り返してきた結果が、今の自分なんじゃないか。」
そんなふうに自分を責めていました。
だからこそ、彼との差があるのも当然なのかもしれない。
そう思うと、さらに自分を追い込んでしまいました。
そして、心の中で何度も自分に言い聞かせました。
「もう辞められない。」
「ここでまた辞めたら、一生逃げ続ける人生になる。」
焦りと不安で押しつぶされそうになりながらも、その日、私は一つの覚悟を決めました。
「最低でも3年間は耐えよう。」
「この会社で学べることはすべて学び、営業ノウハウを吸収してから次へ進もう。」
結果として3年は続きませんでした。
それでも、このとき「逃げずに踏ん張ろう」と覚悟を決めたことは、その後の私の人生を支える大きな転機になったと思っています。
ボーナスゼロの恐怖
入社前、ボーナス制度については「半年で仲介手数料700万円が基準になる」と、採用面接の際にちらっと聞いていました。
ただ、そのときの私は、その数字の大きさを深く理解しておらず、
「頑張れば何とかなるだろう。」
そんな軽い気持ちで考えていました。
しかし、実際に配属されて制度の詳細を知り、私は愕然とします。
私が勤務していた会社では、半年間の仲介手数料(税抜)が700万円に届かなければ、ボーナスは支給されないという制度でした。
仲介手数料700万円を達成するには、単純計算で約2億3,000万円分の不動産取引が必要です。
半年で考えると、毎月約3,800万円分の取引を積み重ねなければ到達できない数字でした。
しかし、私が配属された大阪南エリアは、比較的物件価格が低い地域でした。
3,000万円を超える物件を預かれるのは、ほとんどが店舗のエース営業マン。会社から紹介される案件や大型案件も自然と実績のある営業マンへ回るため、さらに数字を伸ばしやすい環境になっていました。
一方、新人の私は先輩のチラシを配布することが中心で、自分の名前が入ったチラシを配れる機会はほんのわずかでした。
この状況で半年700万円という数字を達成することは、現実的にはかなり高いハードルでした。
中途入社1年目は寸志程度のボーナス保証がありましたが、それも1年目まで。
「このままでは、ボーナスがない状態が続いてしまう。」
配属されて間もない私は、本気でそう思いました。
さらに追い打ちをかけたのが、ボーナス査定の基準が全店舗共通だったことです。
物件価格の高いエリアもあれば、私が配属されたように単価の低いエリアもあります。それにもかかわらず、すべての店舗が同じ基準で評価されることに、私は大きな不公平さを感じました。
そして、もう一つ痛感したことがありました。
店舗のエース営業マンは、この地域の出身者ばかりだったのです。
学生時代からの友人や知人が多く、不動産会社にも同級生や友人がいるような環境でした。「○○さんの紹介だから」と仕事につながることも珍しくありません。
特に大阪南エリアは、人と人とのつながりを大切にする地域です。
一方、私はこの土地とは縁もゆかりもない中途入社の営業マン。
知り合いは一人もおらず、人脈もゼロからのスタートでした。
もちろん、営業は最後は実力の世界です。しかし、地域とのつながりが営業成績に大きく影響する環境では、その差を短期間で埋めることは簡単ではありません。
当時の私は、
「未経験で大阪南エリアに配属された時点で終わったかもしれない。」
そんなことまで考えていました。
一方で、所長の右腕・左腕と呼ばれるポジションまでいけば、日々の業務をこなしているだけでも案件が自然と集まります。
さらに、未経験の後輩が自分のためにチラシを配ってくれるため、新たな反響も生まれやすくなります。
つまり、結果を出す人には、さらに結果を出しやすい環境が用意される。
そんな仕組みになっていることを知りました。
その構造を理解したとき、
「だから、多少きつくても辞めない人がいるんだ。」
と妙に納得したことを覚えています。
もちろん、この仕組み自体を否定するつもりはありません。実績を積み重ねてきた営業マンが、多くの案件を任されるのは当然のことです。
ただ、当時の私には、この環境で営業として成長し、評価される未来を思い描くことができませんでした。
「このままここで泥水を飲み続けるのではなく、まずは実力を身につけられる環境へ行こう。」
そう考えるようになりました。
このボーナス制度への違和感、配属エリアによる営業環境の違い、そして評価基準への疑問は、私が約2年で転職を決意する大きな理由の一つとなりました。
プライドは、あっという間に砕かれた
私は大学院工学研究科を修了しています。
学生時代は、周りに優秀な友人が多く、「置いていかれたくない」という思いで、必死に勉強しながら単位を取得していました。
そのまま大学院へ進学し、新卒では外資系企業へ就職。
私が在籍していた工学部は、留年率が約4割という厳しい環境でしたが、ストレートで卒業し、大学院まで修了することができました。
当時の私は、「努力すれば結果はついてくる」という自信を少なからず持っていたと思います。
しかし、そのプライドは、この会社に入ってあっという間に打ち砕かれました。
営業として結果を出せなければ、学歴も経歴も関係ありません。
ある日の営業会議で、先輩営業マンのお客様の顧客カードを見ながら、所長が私にこう言いました。
「このお客さん、理系の大手企業に勤めてるんやけどな。お前はなんでこういう会社に行かへんかったんやろな?」
仕事ができない私への皮肉だったのでしょう。
その言葉は、今でも忘れられません。
「大学院まで行ってなぜここにいるんだ?」
そう言われたような気がして、本当に悔しかったことを覚えています。
さらに追い打ちをかける出来事もありました。
当時の私は何もできず、叱責されるというよりも、呆れられているような空気すら感じていました。
そんなある日、営業所全員が集まる会議で、所長は私の名前を挙げてこう言いました。
「こういう男を甲斐性なしと言います。」
営業所のみんなの前でした。
何も言い返すことができませんでした。
自信は完全になくなり、人前で話すことさえ苦手になっていました。
そして、ある日の会議。
精神的に限界だった私は、感情を抑えきれず、人前で涙を流してしまいました。
30歳。
妻子のいる一人の父親です。
営業所には20代の女性社員もいました。
「30歳にもなって、人前で泣いてしまった。」
その事実が情けなく、恥ずかしくてたまりませんでした。
当時は、
「妻に合わせる顔がない。」
「妻の家族にも申し訳ない。」
そんなことばかり考えていました。
家族を養うために転職したはずなのに、営業では結果も出せず、人前で涙まで流してしまう。
「今が人生のどん底だ。」
本気でそう思っていました。
それでも、不思議と会社を辞めようとは思いませんでした。
ある日、ふと考え方を変えてみたのです。
「今の自分は、会社に来ているだけでも十分頑張っている。」
朝起きて会社へ行く。
怒られても一日を終える。
それだけでも、昨日の自分より前に進んでいる。
そう考えるようにしました。
そして、自分の中で一つの目標を決めました。
「最低でも3年間は、この会社で学ぼう。」
当時の私には、この会社で活躍する自信はありませんでした。
それでも、大手企業だからこそ学べる営業の仕組みや接客、契約の流れ、お客様との向き合い方は必ずある。
実践するのは次の会社でもいい。
まずは、この会社で吸収できるものはすべて吸収しよう。
そう考えるようになりました。
「今辞めるのはもったいない。」
「どこまで耐えられるか、自分との勝負だ。」
そう思えるようになってから、不思議と少しだけ気持ちが楽になりました。
今振り返ると、この経験があったからこそ、
「肩書きではなく、お客様から信頼される営業になろう。」
そう考えるようになりました。
学歴や経歴ではなく、自分自身の価値で勝負する。
今の私の原点は、この頃にあったのだと思います。
今思えば異常だった毎日
入社してからの毎日は、本当に壮絶でした。
営業というより、「とにかく根性で乗り切れ」という時代だったと思います。
今でも忘れられない出来事を挙げると…。
- 夜10時を過ぎても帰宅できず、その時間から重点マンションへチラシ配布。配り終えると所長へ配布したマンション名をメールで報告し、帰宅は深夜3時頃。所長は夜10時に帰宅済み。
- チラシ配布しか仕事がないのに、行動計画にそう書くと「これでどうやって数字あげるんや、やる気ないなら立っとけ!」と詰められ、所長席の横で4時間立たされる。
- 所長席までいきなり呼ばれ詰められた後、席に戻れと合図が「ハウス!」。犬扱い。
- 教えてもらってもいないことをいきなりやらされできなければ怒鳴られる。
- 所長が走行中の車の窓から食べた後のコンビニ弁当を投げ捨てる。
- 月末会議では1時間以上怒鳴られ続ける。
- 人事へ所長のパワハラを相談すると、今度はさらに上の部長が来て所長、営業にパワハラ。
- 部長から「耳の後ろの匂いを嗅げ」と言われ、「どんな匂いがする?」と聞かれる。
- 部長に「営業は踊れ。アホになれ。」と言われ、その場で回らされたこともありました。
- 夜10時から営業全員が立たされ、一人ずつ罵倒される。
- 友人の結婚式にも参加できませんでした。
- 取引の損害賠償金を営業担当が支払う。所長は責任を負わず一銭も払わない。
これでも、ほんの一部です。言い出したら切りがありません。とりあえず仕事がない、数字があがっていない社員の店舗での待機はパワハラを受ける対象になりました。
今だから笑って話せることもありますが、当時は本当に笑えませんでした。
毎日、食べて寝るだけ。
転職したことを本気で後悔していました。
第二子が生まれたばかりだったこともあり、家族にも大きな負担をかけてしまいました。
岡山へ転勤して間もないタイミングで退職し、妻の実家に住まわせてもらうという決断をしたこともあり、「自分は何をやっているんだろう」と、自分を責める毎日でした。
一番厳しかった会社で、一番大切なことを学んだ
厳しい毎日の中でも、今の私の営業の軸になっている学びが二つあります。
一つ目は、入社式で専務からいただいた言葉です。
「不動産は一に調査、二に調査、三、四も調査、五に調査。不動産は刑事(デカ)だ。」
意味はとてもシンプルでした。
徹底的に調査を行い、裏付けを取ること。
そうすることで、不動産の見えないリスクやデメリットが見えてくる。
それがお客様とのトラブルを防ぎ、本当の意味でお客様のためになるという教えでした。
当時は業界未経験だった私にとって、その考え方はまさに目から鱗でした。
今でも査定や物件調査をするときは、この言葉を思い出します。
二つ目は、二人目の所長から教わった言葉です。
それが『孫子の兵法』でした。
普段は非常に厳しい所長でしたが、ある日こんな言葉を教えてくれました。
「彼を知り、己を知れば百戦危うからず。」
そして、
「戦わずして勝つ。」
当時の私には、その意味がよく分かりませんでした。
しかし営業経験を積むにつれ、この言葉の本当の意味が少しずつ理解できるようになりました。
不動産仲介は、力づくで契約を取る仕事ではありません。
お客様の状況を知る。
市場を知る。
そして、自分自身の強みや弱みを知る。
無理に契約を取りにいくのではなく、お客様から自然と選ばれる営業になること。
それこそが、仲介営業の本質なのだと今では思っています。
振り返ると、この会社は私にとって人生で一番厳しい職場でした。
しかし、その一方で、一番大切な営業の考え方も教えてもらいました。
もちろん、すべての指導や職場環境に納得しているわけではありません。
それでも、不動産一筋で長年現場に立ち続けてきた方々だからこそ、その言葉には重みがありました。
厳しい環境だったからこそ響いた言葉もあり、その教えは今でも私の営業の土台になっています。
「絶対にお客様の立場で仕事をしよう」
当時、私が一番違和感を覚えたのは、営業の進め方でした。
何千万円という大きな金額が動く不動産取引であっても、月末が近づくと「何としてでも今月中に契約をまとめる」という空気が店舗全体に流れていました。
会社の数字が優先され、お客様にじっくり考えていただく時間よりも、契約日程を優先する場面も少なくなかったように感じます。
そのためか、トラブルやクレーム対応に追われる様子を目にすることもありました。
今でも忘れられない出来事があります。
ある月末、新卒社員が不動産会社への買取案件をまとめました。
当時の会社では、月の後半になると、
「何が何でも今月中に契約を入れろ。」
という言葉が毎月のように飛び交っていました。
その案件も、月内契約を優先して話が進められ、無事に契約となりました。
しかし、問題はその後でした。
引渡し前後だったと記憶していますが、売主様からクレームが入りました。
「買取価格が安すぎる。」
「相場を知っていたら、この価格では契約しなかった。」
「納得できない。」
そんな内容だったと記憶しています。
電話対応をしていた新卒社員の表情は、みるみる青ざめていきました。
この案件は新卒社員だけでなく、先輩社員も一緒に担当していました。
二人はすぐに所長へ相談しました。
しかし返ってきた言葉は、
「お前ら二人で何とかしろ。」
でした。
私は、管理職であれば一緒に解決策を考えてくれるものだと思っていました。
だからこそ、その場を離れていく所長の姿には大きな衝撃を受けました。
その後の詳しい経緯は私もすべて把握しているわけではありません。
ただ、社内では二人が売主様への対応に追われ、最終的には約100万円を二人で負担したという話を耳にしました。
私はその話の真偽をすべて確認したわけではありません。
それでも、この一件は私に不動産取引の責任の重さを痛感させるには十分な出来事でした。
契約はゴールではありません。
その後もお客様に安心していただき、「この人に任せて良かった」と思っていただいて初めて、本当の意味で仕事が終わるのだと思いました。
私はこの出来事を通じて、心の中で一つの決意をしました。
「いつか自分一人で仕事ができるようになったら、絶対にお客様の立場で仕事をしよう。」
契約を急がせない。
査定価格の根拠を丁寧に説明する。
メリットだけでなく、デメリットもきちんと伝える。
そして、お客様が心から納得した上で契約していただく。
あの日の出来事があったからこそ、この想いは今でも私の営業スタイルの原点になっています。
耐え続けた2年間が、今の私をつくった
ここまでが、私の新人時代のリアルな2年間です。
結論から言うと、最後の頃には「成長したい」という気持ちよりも、毎日会社へ行き、その場に居続けることが目標になっていました。
正直、途中からは仕事への意欲も薄れ、営業として積極的に前へ出ることはほとんどありませんでした。
雑務をこなし、ときには所長の運転手のような役割を務めながら、一日一日を何とかやり過ごしていたことを今でも覚えています。
入社当初、私は
「最低でも3年間はやり切ろう。」
そう決意していました。
しかし、2年が近づく頃には、心も体も限界に近づいていることを感じていました。
一方で、この2年間で雑務や不動産実務の基礎、そして何より厳しい環境で働く忍耐力は身についたという実感もありました。
だからこそ私は、
「ここで無理を続ければ、次は体調を崩してしまうかもしれない。」
そう感じるようになりました。
今振り返っても、その直感は間違っていなかったと思います。
学べることは十分に学んだ。
次は環境を変え、もっと実務経験を積める場所で勝負しよう。
そう考えるようになりました。
その頃の私は、店舗でも自分から積極的にコミュニケーションを取ることが少なくなっていました。
今思えば、「扱いづらい社員」と思われていたのかもしれません。
もちろん、すべてを環境のせいにするつもりはありません。
当時の私は自信を失い、自分から行動することを恐れていました。
だから結果が出なかったのも事実です。
それでも心のどこかでは、
「もし違う環境だったら、自分はもう少し力を発揮できたのではないか。」
そんな思いを抱き続けていました。
一方で、この2年間は決して無意味な時間ではありませんでした。
転職を繰り返し、少し苦しくなると逃げ出していた自分。
見栄やプライドばかりが先行していた自分。
そんな弱い自分を少しずつ削り、人として鍛えてくれた時間でもありました。
入社当初に感じていた恐怖心も、いつしか薄れていきました。
怒鳴られても、理不尽なことがあっても、
「もう仕方がない。」
そう思えるくらい、良くも悪くも動じなくなっていました。
人からどう思われるかを過剰に気にすることもなくなり、「うまくやろう」と肩に力を入れ過ぎることもなくなりました。
今思えば、それは鈍感力のようなものだったのかもしれません。
そして何より、この2年間で学んだことがあります。
それは、
「人生には、自分の力だけではどうにもならないことがある。」
ということです。
だからこそ、その状況の中で何を学び、どう行動するかが大切なのだと知りました。
結果を出せなかった2年間でした。
決して胸を張れる新人時代ではありません。
それでも、辞めずに働き続けたという事実は、私にとって初めての「踏ん張った経験」でした。
もしこの2年間がなければ、その後の私はありません。
営業に対する考え方も、お客様への向き合い方も、そして自分自身の弱さと向き合うこともできなかったでしょう。
後になって、その会社のOBの方々とお話しする機会がありました。
そこで初めて知ったのですが、私が新人時代に指導を受けた3人の上司は、社内でも指導方法や人間関係に課題があることで知られていたそうです。また、私が配属されたエリアも成果を出すことが難しいエリアだったと聞きました。
「それは運が悪かったね」と、複数の方から同じような言葉をかけていただきました。
もちろん、結果を出せなかった原因を環境だけのせいにするつもりはありません。自分の力不足だった部分も数多くあったと思います。
ただ、当時の私は必要以上に自分を責め続けていました。後になって客観的な話を聞き、「あの環境は決して自分だけの問題ではなかったんだ」と少し肩の荷が下りたことを覚えています。
今振り返れば、あの厳しい環境を経験できたことは決して無駄ではありませんでした。むしろ、その経験があったからこそ、どんな環境でも前を向いて努力する姿勢が身につき、その後の営業人生の土台になったのだと思っています。
そして私は、3年目を迎える前に決断します。
「もっと実務経験を積める環境で、自分をもう一度試したい。」
そう考え、転職活動を始めました。
この決断が、私の人生を大きく変える転機になります。
その続きは、第3章でお話しします。
